something
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なにか
中1くらいで習う単語ですね♡
私が改めてこの単語に出会ったのは、
大学に入学した後のこと。
母校で校訓とは別に語り継がれてきた言葉なんです。
「something」
卒業してン十年の時を経たいま、
改めてこの単語のもつ奥行きを感じて
大切にしたいと思っているところです。
なんだか2018年のキーワードにもなりそうな予感✨
20年近く教員してて、
だんだん「学校」っていう場が
窮屈で息苦しい場所になっていったのね。
それはたぶん、
「学校」だけでなく
社会もそういう流れがあったのだと思う。
ファジーなんていう言葉が
流行語大賞をとったのが1990年のこと。
バブルがはじけて
なんとなく先行きが怪しくなってきたころ。
1994年に大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した時に売れた
「あいまいな日本の私」のタイトルそのものが
あいまいじゃないか
って突っ込みが入ったのも同時期でしたよね。
え?
話が固そう??
まぁそういわずに💛
けっこうおもしろいんですよ、日本文化って。
日本はもともとあいまいな国民性をもってたのね。
例えば、
現存する最古の木造建築である
法隆寺五重塔は、
頑強な柱に支えられていなかったから
残ることができたわけですよね。
知ってました??
五重塔には、
上から下まで通っている柱が一本もないんですよ~。
つまり、
各フロアがバラバラにくっついてるの😱😱😱
すごくない?!
しかも、なぜ倒壊しないのか科学的に解明されていない!!
解明されてないけど、同じような工法が
最近は「柔構造」と言われてビル建築につかわれたりしているのね。
建築だけでなくって、
家の造りだって、
襖や障子を開ければ
部屋の広さを自在に変えられるし、
濡れ縁を通して
庭までを一連の家の景色としてとらえる。
例えば家具にしても、
固定された家具よりは
たたんでしまえるお布団やちゃぶ台のようなものや
必要な時だけ出せばよい座布団で
可変性の高い空間を保っている。
オタクでごめんなさいね~(;'∀')
好きなんです、建築の話🏡
美術や文学においても、
水墨画のような余白の美を味わったり、
短歌や俳句のように限られた文字数の中から
読み取る情景は受け手にゆだねられる
そんな「あいまいな」部分がたくさんあったんですよ。
それがね、
高度経済成長期を経て、
バブルに浮かれて、
バブルもはじけた後に、
あいまいさを認めない
余白を持たせない
そんな風潮が強まった。
「学校」で言えば、
「学校」は子どもが学ぶ場で、
そんな場所で教師たるものが乱れた服装でいるのは
けしからん!
とか、
宴会をするなんてもってのほか!
とか、
もうちょっと日常で言えば、
評定をつけた根拠を
全てのエビデンスと共に示さなければならない
とか、
全ての子どもに「平等」に対応するために
指名回数や発言回数を管理せよ
とか・・・ね(;´・ω・)
「余白」
「幅」
「あそび」
「あいまいさ」
そういうものがどんどん排除されていったわけ。
ところが、
ところが、ですよ。
人間って
確固たる厳然としたものの中だけでは
生きていけない。
都会の、まっすぐ一直線に空に向かってそびえる
高層ビル
山の中の、葉のゆらめきを携えながら空に向かって広がる
木立ち
人工のものはどれも隅々まで計算されつくされて
一片のあそびも残っていない。
私たちはファジーなものに囲まれている時
その余白を感じ取って、心が安らぐ。
それは、私たち自身が自然の一片だから。
あいまいな、
はっきりしない、
線引きできない、
なにかを感じ取っているだろうね~。
その感覚が、
「something」なのではないかなって
最近思うんです。
そして、
そのsomethingが、
心の奥のところで
私たちが本当に求めているものなんじゃないかな。
something
何だか分からないなにか
それを心の中にもって
自分の揺らぎを受け入れること。
そうすると
深呼吸して、心に安息を取り戻せる
そう思うんだよね♡
一緒にsomething感じよう♡
Shiny Edu
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まもなく配信します♡
(めっちゃこっそり告知www)
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